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52話 フィオナが来た日

last update publish date: 2026-09-17 16:30:41

 フィオナがルシェムに来たのは、謁見から二週間後のことだった。

 予告なしだった。

 朝、市場から戻ったマリオが、息を切らして事務室に飛び込んできた。

「フィオナさんが来た」

「どこに?」

「市場の入り口。馬車で来てる。荷物が多い」

「荷物が多い?」

「トランクが二つある」

 エリナは少しだけ止まった。

「泊まりではなく、しばらくいるつもりですか」

「そういうことじゃないか? 迎えに行くか?」

「行きます」

 市場の入り口に着くと、フィオナが馬車の横に立っていた。

 久しぶりに、ルシェムで見るフィオナだった。

 王都で会った時とは少し違って見えた。服装は変わらないが、顔が少し違う。

 疲れている、と手紙に書いていた。

 確かに、少し疲れた顔をしていた。

 でも、エリナを見た瞬間、目が変わった。

「来た」

「来ましたね、予告なしで」

「予告したら、準備されすぎると思って。あなたのことだから、部屋を完璧に整えて、食事まで用意して待っていそうだから」

「そうしようとしていました」

「でしょう。だから、言わなかった」

「荷物が多いですね」

「しばらくいようと思って」

 フィオナが少しだけ声を落とした。

「王都からの仕事は、手紙でできる部分も多い。しばらくルシェムで動きながら、こちらの空気も吸いたかった」

「どのくらい?」

「一週間か、二週間か。決めていない」

「決めなくていいです。いたいだけいてください」

 マリオが荷物を運んでくれた。

 フィオナが見ると、少し驚いた顔をした。

「マリオ、大きくなった?」

「なってないと思うけど、フィオナさんが久しぶりに会うから大きく見えるだけじゃないか?」

「そうかもしれない。でも、なんか違う。顔が違う」

「どう違う?」

「前より、落ち着いた顔をしてる」

「そうかな」

 マリオが頭を掻いた。

「俺はいつも同じだと思うけど」

「変わった人間は、自分では気づかないもの。エリナもそうだし、私もそうだし」

「フィオナさんも変わったのか?」

「変わった。王都で一人でいると、いろんなことを考える」

「そうか」マリオが頷いた。「まあ、ゆっくりしていってくれ。ルシェムは、王都より静かだから」

「それが目的だから」フィオナが笑った。

 ルナが、事務室から顔を出した。

 フィオナを見て、少しだけ目が動いた。

「ルナ、久しぶり」

「久しぶり。来た」

「来た。王都から」

「遠かった?」

「少し。でも、来てよかった」

「猫が増えた」

「え?」

「三匹いる」

「そうなの?」

 フィオナが少し目を丸くした。

「前は一匹だったのに」

「来た」

「猫が来たの?」

「なぜか来る。いつの間にかいる」

「ルナの周りだから、そうなるのかもしれない。動物に好かれる人だから」

「そう言われる。フィオナは、好かれない?」

「猫には、あまり。人間には、そこそこ」

「そう。猫は正直だから」

「それは、どういう意味かしら」

「フィオナは、少し怖い感じがするから。猫は怖い感じがする人を避ける。でも、悪い怖さじゃない」

「どういう怖さ?」

「全部を見てる感じ。猫は、全部を見てる人が苦手」

 フィオナが少しだけ、口の端を動かした。

「なるほど。ルナに分析されるとは思わなかった」

「違う?」

「違わない。正確すぎて、少し怖い」

「だから、猫に避けられる」

 昼食を四人で食べた。

 エリナ、マリオ、ルナ、フィオナ。

 豆のスープと、パン。

 フィオナが一口飲んで、少しだけ目を細めた。

「これ、エリナが作ったやつ?」

「そうです」

「最初にルシェムに来た時も、このスープを食べた気がする」

「同じものです」

「変わらないね」

「変わらない方がいいものもあります」

「そうね。このスープは、変わらなくていい」

 マリオが言った。

「フィオナさん、王都どうだった。疲れた?」

「疲れた。でも、いい疲れと悪い疲れがある。王都での仕事は、いい疲れだった。でも、積み重なると、ただの疲れになる」

「それで、来たのか」

「そう。ルシェムの空気を吸いに来た」

「ルシェムの空気、特別なものでもないけどな」

「あなたはそう感じないかもしれない。でも、私には特別だ。知っている人たちがいる場所の空気は、違う」

 マリオが少しだけ黙った。

「そうか。じゃあ、ゆっくりしていってくれ」

「そうする」

 午後、フィオナとエリナは二人で事務室に入った。

 フィオナが荷物の中から手帳を取り出した。

「仕事の話もしたい。王都の状況を、直接話したい」

「はい」

「クロヴェルは、今のところ大きな動きがない。でも、内部で何かを考えているはずだ。次の手が来るとしたら、春ごろかもしれない」

「春、ですか」

「陛下が謁見で言及してから、表立って動きにくくなっている。でも、クロヴェルは長期戦が得意だから、タイミングを見ている可能性がある」

「その時のために、今から準備する必要がありますね」

「そう。それと、一つ気になる動きがある」

「何ですか?」

「クロヴェルが、商人ギルドの一部と接触を再開している。前回は流通への介入を試みた。今回は、別のことを考えているかもしれない」

「別のこと、とは?」

「模造品。アッシュフォード商会の石鹸に似た製品を、別の商会が販売し始める可能性がある。価格を下げて、品質を落として。そうすることで、石鹸全体のイメージを悪化させる作戦だ」

「それは——証明が難しい」

「そう。誰が作っているかを特定するのが難しい。でも、品質基準の公開が、ここで生きてくる」

「学院の確認書が、私たちの品質を担保している」

「そうだ。模造品が出ても、学院が確認した基準を満たしているかどうかで、区別できる」

「品質基準の公開を、もう少し広く周知する必要がありますね」

「そう思う。各町の薬屋に配るのが一番早い。薬屋が知っていれば、消費者に説明できる」

「ゴードンさんに相談します。今週中に動ける」

「助かる。こういう話が、直接できるのがいい。手紙だと、どうしても時間がかかる」

「フィオナがいてくれると、動きが速くなります」

「それが、来た理由の一つでもある。疲れを取るためだけじゃなくて、直接動きたかった」

 夕方、フィオナがルシェムの町を歩きたいと言った。

 マリオが案内役を申し出た。

「市場を見せてあげるよ。マルタさんにも会えるし」

「マルタさん、元気?」

「元気だよ。声が大きいのも変わらない」

「そう、会いたいな」

 二人で出かけていった。

 エリナはルナと作業場に残って、薬草の在庫確認をした。

「フィオナ、変わった?」

 ルナが棚を見ながら聞いた。

「変わったと思います。でも、フィオナらしさは変わっていない」

「そういうもの?」

「そういうものだと思います」

「エリナも、変わったけどエリナらしい」

「そうですか?」

「そう」

 ルナが棚の瓶を一つ手に取って、確認した。

「変わることと、変わらないことが、両方ある。それがいい」

「どちらかだけでは、ダメですか?」

「ダメじゃない。でも、両方あると強い。根っこが変わらないまま、枝が伸びる。そういう感じ」

 エリナは少しだけ、その言葉を考えた。

 根っこが変わらないまま、枝が伸びる。

「ルナは、木が好きですか」

「好き」

「なぜですか?」

「ゆっくり育つから。急がない。でも、ちゃんと伸びる」

 夜、マリオとフィオナが市場から戻ってきた。

 フィオナがマルタとグレンに会ったらしく、少し顔色が良くなっていた。

「マルタさん、相変わらずだった。声が大きくて、笑い声が遠くまで聞こえる」

「そうでしょう」

「グレンさんにも会った。あの人、無口だけど、いい目をしてる」

「そうですね」

「ルシェムの人たちは、みんな、自分の場所を持っている感じがする」フィオナが静かに言った。「王都の人たちとは、少し違う」

「どう違いますか?」

「王都の人たちは、どこか次の場所を見ている。でも、ルシェムの人たちは、ここにいる。それが、いいと思った」

「ここにいる、ということが」

「そう。私は、ずっと次の場所を見てきた。ベルナを出て、王都に来て、次は何かと考えてきた。でも、ルシェムに来て、ここにいる人たちを見て、少し思った」

「何を?」

「いつか、私もどこかにいる、という場所を作りたい」フィオナが静かに言った。「次の場所ではなく、ここ、という場所を」

 エリナは少しだけ、フィオナを見た。

 疲れている、と手紙に書いていた。

 でも、それだけではなかった。

 次の場所を探し続けることに、疲れていたのかもしれない。

「フィオナ」

「何?」

「ルシェムが、そういう場所になることはありますか?」

 フィオナが少しだけ止まった。

「なるかもしれない」

 フィオナが静かに言った。

「まだわからない。でも、なるかもしれない」

「なったら、教えてください」

「教える。その時は、エリナに一番最初に言う」

 夜、全員で夕食を食べた。

 エリナ、セレーナ、マリオ、ルナ、フィオナ、ゴードン。

 久しぶりに、長屋が人で賑やかだった。

 セレーナがフィオナに話しかけていた。フィオナがセレーナに王都の話をしていた。マリオがルナに何かを言って、ルナが首を傾げていた。ゴードンが静かに食事をしていた。

 エリナはその場面を、少しだけ見ていた。

 一年半前、この長屋には自分と母だけだった。

 今は、こんなに人がいる。

 テーブルの周りの人たちを、順番に見た。

 全員が、ここにいる。

 それが、今夜一番大事なことだった。

 食事が終わって、フィオナが言った。

「エリナ、一つだけ聞いていい?」

「どうぞ」

「レインからの手紙、最近どんな内容だった?」

 エリナは少しだけ考えた。

「図書室の話が来ました。父の記録書の話」

「それだけ?」

「衛生教育の話もありました」

「それだけ?」

「……個人的なことも、少し」

「どんな?」

「廊下を歩きながら、手紙のことを考えている、という話でした」

 フィオナが少しだけ目を細めた。

「そういうことを書いてくるんだ」

「書いてきました」

「で、あなたはどう返した?」

「私も同じです、と」

 フィオナがしばらくエリナを見た。

 それから、小さく笑った。声には出なかった。でも、笑った。

「いい返し方ね」

「そうですか?」

「そうよ。それ以上でも、それ以下でもない。あなたらしい」

「褒めていますか?」

「褒めてる、絶対に」

 夜、エリナは机に向かった。

 レインへの手紙を書いた。

 レインへ

 今日、フィオナがルシェムに来ました。予告なしで。

 久しぶりにルシェムのみんなと一緒に夕食を食べました。セレーナ、マリオ、ルナ、ゴードンさん、フィオナ。テーブルの周りに、全員がいました。

 一年半前、この長屋には私と母しかいなかった。今日は、こんなに人がいた。

 それを、あなたに知っていてほしかった。

 フィオナが、レインからの手紙の話を聞いてきました。「廊下を歩きながら、手紙のことを考えている」という話を話したら、フィオナが笑いました。何も言いませんでしたが、笑いました。

 フィオナの笑い方が、何かを知っている笑い方でした。

 また来ると言ってくれた。待っています。

                                     ――エリナ――

 書いて、封をした。

 「テーブルの周りに、全員がいました」という一行を、書く前に少し考えた。

 でも、届けたかった。

 今日の夕食の場面を、レインに知っていてほしかった。

 ランプを吹き消した。

 隣の部屋から、フィオナが寝る準備をする音が聞こえた。

 マリオが手配してくれた部屋に、フィオナが泊まっていた。

 ルシェムに、フィオナがいる。

 エリナ・アッシュフォード、八歳。

 今日、テーブルの周りに全員がいた。

 それが今夜、一番大事なことだった。

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